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「ねえねえ、寝られないよう」
小さな声が聞こえる。ドアの下から、まるで子猫のようだ。また言う。
「ねえねえ」
少しずつ声が大きくなって、遂に黄金色のドアノブが暗がりの中で回転した。
黒いバジと白い智子は重なり合ったまま、ベッドの上から気持ち、ドアの方向に振り返る。でもできればそのまま甘いところに、居続けたい。もうトイレも風呂も済ませて寝間着に着替え済みで、消し残したランプの弱い光がシーツの上におぼろげな泡の影をつくる。
智子は翌朝早くから結婚式の賛美歌うたいの仕事が入っているのだ。なるべく早く眠ってしまいたい。睡眠は咽喉に響く。バジはバジで、智子の留守中にマリーのためにとびきり美味しい目玉焼きを作ってあげるのだ。それから、古代エジプトの象形文字を勉強し直す。
ところがまた「ねえ」と声がして、今度はドアが一寸開いた。バジは素早く智子から離れて、急いでドア寄りのベッドの縁に腰掛けた。智子は行き場を失って、そのままひっくり返っている訳にもいかないので体を起してベッドの上で座禅を組んだ。
それからドアが半分以上開いて、廊下から部屋の中にオレンジジュース色の光が飛び込んできた。そしてその光を背にして、小さなマリーゴールドが立ち、そして訴える。
「寝られなくなっちゃたヨ」
マリーゴールドちゃん、四歳・カハハ。『ちゃ』の後の小さい『っ』が抜けていますよう、ほうら。桃色のお寝巻きを羽織って、手にはお誕生日プレゼントにもらったルービックス・キューブを持ち、甘栗色の髪からは薄ら寝癖が逆立って、毛頭が輝いている。
バジはベッドの端からマリーの方を向いて、
「マイ・リトル・プリンセッス」
と両腕を広げながら顔をほころばせた。智子は廊下の電気が眩しくて、もう眠いし「かーぐーやーひーめー、池ネコ池ネコ、ごろりんしゃん」などと、気を失ったように迷走する心の中唱えていたのだが、顔だけは目をつむったままニコニコしておいた。マリーは、バジのほぼ百八十度全開された股の中に飛び込んできて、
「ぴぴパピ、ぴぴパピィ!」
と、はしゃぎながらルービックス・キューブのセルをぐるぐると騒がしく回し始めた。
バジはパピ、智子はマミ。
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