Sunday, July 24, 2011

マリーゴールド (五十完)

その直後また智子が、
「大丈夫?」
 と聞くと案外すぐにドアが開いて、トイレの流れる音もして、マリーが出てきてそのまま智子に目もくれずに隣の洗面所に行って歯を磨き始めた。智子が大股で追いかけて行って、
「大丈夫なのね」
 と念を押すと、鏡越しにマリーが「ぷむ」と小さく頷いた。
暫く歯を磨いて、口を濯ぎ終えたマリーが、
「おばあちゃんがさっき、お風呂でね、」
 と話し始めたころには、もう智子はそこに居なかった。マリーは諦めてお口を拭いて、ちゃんと一人でお寝巻きに着替えてベッドに入った。
その夜遅く、金星が出て、山側から海へと一気に風が吹いた。マリーはチベット曼陀羅のタオルケットにしっかりと包まって、カレーとナンの夢を朝まで見続けた。
まだ寝ていても、構わないんだから。

(完)

マリーゴールド (四十九)

食事の後、後片付けも終わって、おばあちゃまはもう寝ますとか何とか話していたとき、マリーが急にお腹が痛いと言いだして、トイレに引きこもってしまった。戸のすぐ外では智子が、
「大丈夫、大丈夫?」
 との声を掛けるのだが、中からは弱弱しい訳の分からない答えしか返って来ない。そこへおばあちゃまが、お饅頭を二、三個お盆に載せて通りかかった。
「マリーちゃん、大丈夫かしら」
 とおばあちゃまが言うと、智子は、
「ママが紅茶なんか飲ますからよ」
 と喰ってかかる。でもおばあちゃまは悠々と構えて、
「そうかしら。それとも、今日見聞きしてしまったものかしら」
 と答えた。智子はまた慌ててしまって、
「今日見聞きしてしまったものって、何、そんな」
 と激していたが、おばあちゃまはそれに対して、
「見聞きしたことというより、考えたり感じたりしたことかしら」
 とだけ注釈を加えて、
「では、くれぐれもマリーちゃんお大事にね。どうもご馳走さまでした」
 と丁寧言ってするりと通り抜けて、向こうへ行ってしまった。

マリーゴールド (四十八)

「マリー、パピの生まれた国はお茶の葉で有名なのは、この前お話ししました。では、日本だと、お茶の葉で有名な県はどこでしょう」
 とまたバジがいつものクイズをマリーに出していた。これがまた、色々な種類のクイズ問題があるのだ。
 デザートのプルーンをもう一度拭いてから配って、お茶も入って、ポットからは湯気がほわほわと上った。パッションフルーツやグアヴァの青や黄色や苔紫の香りが一気に広がる。この香りで智子の機嫌も少しは直って、
「主には暖色系の香りね、でもかなりの混合色だわ」
 などとカラー・コーディネータぶって喜んでいた。おばあちゃまも、
「南国って感じはするわよね、良い感じ」
 と浅めの深呼吸を何回かした。
マリーは、熱そうに一寸味見してみて、
「舌がちょっとピリピリする」
 などと言いながらも、ニコニコきれいな乳歯で笑った。バジだけが一人もの静かな表情で、遠くを見詰めていた。ケラ・ケララ・ケララ。蛙のオルゴールが救急車の上に乗っかって通り過ぎて行く。
真ッ暗な夜に、緑の光、低い漆黒の海岸線。ザブリ。

マリーゴールド (四十七)

智子はもう呆れて、聞く興味もなくなって、
「えっ?はい?」
 などと皮肉と無関心を両方最大限に配合して言ったのだが、バジはただまた同じことを繰り返すだけだ。おばあちゃまは真摯に、敬虔に目を閉じて、バジの一言を本気で味わっている。智子はもう本当に呆れて、
「あのね、バジさん。ここの主役はマリーです。そんなことほざいたって、まずマリーに理解できる訳ないわよね、マリー。パピに分かりません、理解できません、て言ってあげて。そうじゃないと、ホント駄目だわ」
 と言った。でもマリーは黒い濃い眉毛をバッタの形に折り曲げて、
「マリー分かるもん。理解できるもん」
 と言い返してきた。智子は少しショックであがきながらも、
「ふふ。『理解』の意味も全く分かってないくせに」
 と笑ってみせると、マリーが即、
「『理解』っていうのはね、あのね、他人の気持ちを察すること。思いやりの心を持つこと」
 と回答した。智子は首をかしげて、
「ん?そういう意味だったっけ?」
 と呟いていたが、そうしている内におばあちゃまがてんぷらを全部食べ終わって、
「さあさあ、お茶でも淹れましょうねえ。おばあちゃまのお茶のお時間よ。今日は、マレーシアのお茶です。マリーちゃんも、飲んでみますか?」
 と言って席から立ち上がった。さっぱり、すっきり。マリーも、
「うん!」
 と元気よく答えた。おばあちゃまは、
「何事もチャレンジ、チャレンジ」
 とはきはき小声で口ずさみながら、台所の奥へと消えて行った。すると智子が椅子から身を乗り出して、
「ちょっと、ママ、マリーはまだちっちゃいから、お茶とかコーヒーは飲ませないの」
 と言った。が、おばあちゃまはお湯を火にかけながら、
「良いじゃない、今日ぐらい。雨の中、大変だったんだから。お茶ぐらい、飲まなきゃ」
 と言った。

マリーゴールド (四十六)

智子は堪りかねて、
「ジュース飲んで。お菜ッ葉は残さない」
 などと関係のない小言を言い始めた。するとマリーが、小さいながらも最後の切り札を出してきた。
「マミもそこにいたよ。いたでしょ、見たもん。パピのこと蹴ったり踏んだりしてたでしょ、おばあちゃまも見たもん。見てたよ」
 急に興奮してきたようだった。声が異常に大きい。
智子は舌打ちして、
「何と人聞きの悪い。変なこと言わないで頂戴、何よそれ。いくら何でも酷すぎるわよ。ねえ、ママ。何とか言ってよ、もう。何言ってるのかしら、この子」
 と怖い顔を作って、悔し紛れにわざと自分のお箸を両方下の床に投げつけた。
 おばあちゃまは平静を保とうと、何とかニコニコ笑おうとして、
「怒ると寿命が縮まりますよ」
 なり何なり言って、でもお腹は空いていたし美味しいので松葉のてんぷらを残っていたサラダのドレッシングにつけて食べてみた。
 智子はお箸が無くなったので行き場を失って、おばあちゃまの顔ばかりチラチラ見てきた。遂におばあちゃまも耐えられなくなって、
「智子ね、ちっちゃな子供の空想ぐらい、大きな気持ちで受け止めてあげなきゃ。大人は心も大きくないと。ね、子供の想像力、育んでいかないと世の中潰れますよ」
 と諭した。智子は相当膨れながらも、「ぽん」とだけ言って引き下がって、床のお箸を拾ってティッシュで一回巻いて、解いてまた巻き直した。そこへバジが脇から飛び込んで来て、
「マリーが見たものは、現実だよ」
 といきなり言いだした。沈黙。マリーがジュースをすする。
暫くしておばあちゃまが、
「おお」
 と上半身を後ろに倒しながら言ったが、智子は鼻で笑って、
「な訳ないわよね、空想に決まってるじゃない。現実と空想をごちゃ混ぜにしないで。やめて・すごくすごく・危険」
 と首を振りながら言った。おばあちゃまは今度は木の芽のてんぷらを齧りながら一生懸命、口角を上げている。バジは落ち着いて、ゆっくりと言った。
「本当に信じられないようなこと、それこそが真の現実」
 と。

マリーゴールド (四十五)

だが、呑み込んですぐ表情が一変、椅子をがたんと言わせて、
「あのね、今日ね、ロケット公園でね、パピィが居たの」
 と言った。おばあちゃまは何か言おうとして口を丸く開けたが、そのまま止まった。智子は少し眉を上げて、
「え?そうなの?パピは今日はずっとお家でお昼寝してたのよ。庭刈りの直前まで」
 と言った。バジは嫌そうに目を細めたが、やがて頷いた。智子はぜんまいの端切れのてんぷらを口に放り入れながら、
「違う人だったんじゃないの」
 なり、
「だって、あり得ないじゃないの」
 なり言っていたが、マリーは諦めなかった。
「だって見たんだもん」
 と言って、お箸を放り出して話し始めた。
「水の中でね、すごい蹴られてたよ、パピ。男の人たちがお顔を押さえ付けてたの。むん。でもマリーがおっきな声で言っても駄目なの。雨がすごいから。でね、マリー、汚れちゃったの。と、マリーそこに行こうとしたの。そうしたら水の中に落っこちちゃった。そうしたらおばあちゃまが助けに来てくれたの。でもそうしたらロケットが落ちてきちゃったの」
 バジが毎晩のように変な文章ばかり読んで聞かせるから、遂に頭がどうかしてしまった。可哀想に。四歳にして狂人。笑えない。
智子は、
「ちょっと待って、だってロケットが落ちてくる訳がないじゃない。ロケット公園よ」
 と尤もらしく言う。ご存知ないかもしれないが、ロケット公園は子供たちに夢と希望を与えるための公園だから空に飛び立つロケットしか置いていないはずなのだ。墜ちてくるロケットなんて。滅相もない。あり得ない。

マリーゴールド (四十四)

「このサラダはですね」
 バジが説明し始める。
「まず十の松の実の欠片が放射状に並んでいて、その外側を五十の卵の黄身の粒が取り囲んでいます。これはイタリア半島に紀元前存在した多神教の一種、ラムザ派の・・・」
 長い説明が終わった後、智子がいつもの、
「食べたら一緒やん」
 を言うと、それを合図に皆で、
「はい、いただきます」
 と言って、一斉に食べ始めた。
 サラダはやはりドレッシングが圧巻で、おばあちゃまも「大好き」と感嘆していた。また婿ポイント獲得。それから、智子の山菜てんぷらも素晴らしかった。前々日に智子が埼玉に仕事で行ったときに、大量にもらって帰ってきたのだ。
「秩父の森はすごいわよ」
 と智子が楽しそうに言った。たれもピリ辛で美味しかった。
 だがそれも束の間、マリーが悲鳴を上げた。
「どうしたの、どうしたの」
 と皆で騒いでいると、マリーが食べかけのじゃがいものてんぷらをお皿の上に置いて、お箸のサキッチョでつついていた。そう、智子は輪切りにしたポテトもてんぷらにしたのだった。
 マリーのポテトを見ると、衣が取れかかって、マリーの歯型がついたポテトの表面に茶色い線で描かれた、何か絵のようなものが見えた。
「ああそれ」
 と智子が笑った。
「マリー、大当たり!」
 おばあちゃんが覗き込むと、ポテトの表面にはバジの顔が描かれていた。マリーが鼻の部分を噛みちぎってしまっているが。
「いや、ね、遊び心でポテトの内一枚だけに熱したコテでパピの顔を描いてみたのよ。さすが娘だけあるわねえ、マリー。大当たりじゃない、やるじゃない」
 と智子が嬉しそうにして、バジも微笑んだ。マリーも一緒に笑ってパクリと残りのポテトを食べてしまった。