Sunday, July 24, 2011

マリーゴールド (五十完)

その直後また智子が、
「大丈夫?」
 と聞くと案外すぐにドアが開いて、トイレの流れる音もして、マリーが出てきてそのまま智子に目もくれずに隣の洗面所に行って歯を磨き始めた。智子が大股で追いかけて行って、
「大丈夫なのね」
 と念を押すと、鏡越しにマリーが「ぷむ」と小さく頷いた。
暫く歯を磨いて、口を濯ぎ終えたマリーが、
「おばあちゃんがさっき、お風呂でね、」
 と話し始めたころには、もう智子はそこに居なかった。マリーは諦めてお口を拭いて、ちゃんと一人でお寝巻きに着替えてベッドに入った。
その夜遅く、金星が出て、山側から海へと一気に風が吹いた。マリーはチベット曼陀羅のタオルケットにしっかりと包まって、カレーとナンの夢を朝まで見続けた。
まだ寝ていても、構わないんだから。

(完)

マリーゴールド (四十九)

食事の後、後片付けも終わって、おばあちゃまはもう寝ますとか何とか話していたとき、マリーが急にお腹が痛いと言いだして、トイレに引きこもってしまった。戸のすぐ外では智子が、
「大丈夫、大丈夫?」
 との声を掛けるのだが、中からは弱弱しい訳の分からない答えしか返って来ない。そこへおばあちゃまが、お饅頭を二、三個お盆に載せて通りかかった。
「マリーちゃん、大丈夫かしら」
 とおばあちゃまが言うと、智子は、
「ママが紅茶なんか飲ますからよ」
 と喰ってかかる。でもおばあちゃまは悠々と構えて、
「そうかしら。それとも、今日見聞きしてしまったものかしら」
 と答えた。智子はまた慌ててしまって、
「今日見聞きしてしまったものって、何、そんな」
 と激していたが、おばあちゃまはそれに対して、
「見聞きしたことというより、考えたり感じたりしたことかしら」
 とだけ注釈を加えて、
「では、くれぐれもマリーちゃんお大事にね。どうもご馳走さまでした」
 と丁寧言ってするりと通り抜けて、向こうへ行ってしまった。

マリーゴールド (四十八)

「マリー、パピの生まれた国はお茶の葉で有名なのは、この前お話ししました。では、日本だと、お茶の葉で有名な県はどこでしょう」
 とまたバジがいつものクイズをマリーに出していた。これがまた、色々な種類のクイズ問題があるのだ。
 デザートのプルーンをもう一度拭いてから配って、お茶も入って、ポットからは湯気がほわほわと上った。パッションフルーツやグアヴァの青や黄色や苔紫の香りが一気に広がる。この香りで智子の機嫌も少しは直って、
「主には暖色系の香りね、でもかなりの混合色だわ」
 などとカラー・コーディネータぶって喜んでいた。おばあちゃまも、
「南国って感じはするわよね、良い感じ」
 と浅めの深呼吸を何回かした。
マリーは、熱そうに一寸味見してみて、
「舌がちょっとピリピリする」
 などと言いながらも、ニコニコきれいな乳歯で笑った。バジだけが一人もの静かな表情で、遠くを見詰めていた。ケラ・ケララ・ケララ。蛙のオルゴールが救急車の上に乗っかって通り過ぎて行く。
真ッ暗な夜に、緑の光、低い漆黒の海岸線。ザブリ。

マリーゴールド (四十七)

智子はもう呆れて、聞く興味もなくなって、
「えっ?はい?」
 などと皮肉と無関心を両方最大限に配合して言ったのだが、バジはただまた同じことを繰り返すだけだ。おばあちゃまは真摯に、敬虔に目を閉じて、バジの一言を本気で味わっている。智子はもう本当に呆れて、
「あのね、バジさん。ここの主役はマリーです。そんなことほざいたって、まずマリーに理解できる訳ないわよね、マリー。パピに分かりません、理解できません、て言ってあげて。そうじゃないと、ホント駄目だわ」
 と言った。でもマリーは黒い濃い眉毛をバッタの形に折り曲げて、
「マリー分かるもん。理解できるもん」
 と言い返してきた。智子は少しショックであがきながらも、
「ふふ。『理解』の意味も全く分かってないくせに」
 と笑ってみせると、マリーが即、
「『理解』っていうのはね、あのね、他人の気持ちを察すること。思いやりの心を持つこと」
 と回答した。智子は首をかしげて、
「ん?そういう意味だったっけ?」
 と呟いていたが、そうしている内におばあちゃまがてんぷらを全部食べ終わって、
「さあさあ、お茶でも淹れましょうねえ。おばあちゃまのお茶のお時間よ。今日は、マレーシアのお茶です。マリーちゃんも、飲んでみますか?」
 と言って席から立ち上がった。さっぱり、すっきり。マリーも、
「うん!」
 と元気よく答えた。おばあちゃまは、
「何事もチャレンジ、チャレンジ」
 とはきはき小声で口ずさみながら、台所の奥へと消えて行った。すると智子が椅子から身を乗り出して、
「ちょっと、ママ、マリーはまだちっちゃいから、お茶とかコーヒーは飲ませないの」
 と言った。が、おばあちゃまはお湯を火にかけながら、
「良いじゃない、今日ぐらい。雨の中、大変だったんだから。お茶ぐらい、飲まなきゃ」
 と言った。

マリーゴールド (四十六)

智子は堪りかねて、
「ジュース飲んで。お菜ッ葉は残さない」
 などと関係のない小言を言い始めた。するとマリーが、小さいながらも最後の切り札を出してきた。
「マミもそこにいたよ。いたでしょ、見たもん。パピのこと蹴ったり踏んだりしてたでしょ、おばあちゃまも見たもん。見てたよ」
 急に興奮してきたようだった。声が異常に大きい。
智子は舌打ちして、
「何と人聞きの悪い。変なこと言わないで頂戴、何よそれ。いくら何でも酷すぎるわよ。ねえ、ママ。何とか言ってよ、もう。何言ってるのかしら、この子」
 と怖い顔を作って、悔し紛れにわざと自分のお箸を両方下の床に投げつけた。
 おばあちゃまは平静を保とうと、何とかニコニコ笑おうとして、
「怒ると寿命が縮まりますよ」
 なり何なり言って、でもお腹は空いていたし美味しいので松葉のてんぷらを残っていたサラダのドレッシングにつけて食べてみた。
 智子はお箸が無くなったので行き場を失って、おばあちゃまの顔ばかりチラチラ見てきた。遂におばあちゃまも耐えられなくなって、
「智子ね、ちっちゃな子供の空想ぐらい、大きな気持ちで受け止めてあげなきゃ。大人は心も大きくないと。ね、子供の想像力、育んでいかないと世の中潰れますよ」
 と諭した。智子は相当膨れながらも、「ぽん」とだけ言って引き下がって、床のお箸を拾ってティッシュで一回巻いて、解いてまた巻き直した。そこへバジが脇から飛び込んで来て、
「マリーが見たものは、現実だよ」
 といきなり言いだした。沈黙。マリーがジュースをすする。
暫くしておばあちゃまが、
「おお」
 と上半身を後ろに倒しながら言ったが、智子は鼻で笑って、
「な訳ないわよね、空想に決まってるじゃない。現実と空想をごちゃ混ぜにしないで。やめて・すごくすごく・危険」
 と首を振りながら言った。おばあちゃまは今度は木の芽のてんぷらを齧りながら一生懸命、口角を上げている。バジは落ち着いて、ゆっくりと言った。
「本当に信じられないようなこと、それこそが真の現実」
 と。

マリーゴールド (四十五)

だが、呑み込んですぐ表情が一変、椅子をがたんと言わせて、
「あのね、今日ね、ロケット公園でね、パピィが居たの」
 と言った。おばあちゃまは何か言おうとして口を丸く開けたが、そのまま止まった。智子は少し眉を上げて、
「え?そうなの?パピは今日はずっとお家でお昼寝してたのよ。庭刈りの直前まで」
 と言った。バジは嫌そうに目を細めたが、やがて頷いた。智子はぜんまいの端切れのてんぷらを口に放り入れながら、
「違う人だったんじゃないの」
 なり、
「だって、あり得ないじゃないの」
 なり言っていたが、マリーは諦めなかった。
「だって見たんだもん」
 と言って、お箸を放り出して話し始めた。
「水の中でね、すごい蹴られてたよ、パピ。男の人たちがお顔を押さえ付けてたの。むん。でもマリーがおっきな声で言っても駄目なの。雨がすごいから。でね、マリー、汚れちゃったの。と、マリーそこに行こうとしたの。そうしたら水の中に落っこちちゃった。そうしたらおばあちゃまが助けに来てくれたの。でもそうしたらロケットが落ちてきちゃったの」
 バジが毎晩のように変な文章ばかり読んで聞かせるから、遂に頭がどうかしてしまった。可哀想に。四歳にして狂人。笑えない。
智子は、
「ちょっと待って、だってロケットが落ちてくる訳がないじゃない。ロケット公園よ」
 と尤もらしく言う。ご存知ないかもしれないが、ロケット公園は子供たちに夢と希望を与えるための公園だから空に飛び立つロケットしか置いていないはずなのだ。墜ちてくるロケットなんて。滅相もない。あり得ない。

マリーゴールド (四十四)

「このサラダはですね」
 バジが説明し始める。
「まず十の松の実の欠片が放射状に並んでいて、その外側を五十の卵の黄身の粒が取り囲んでいます。これはイタリア半島に紀元前存在した多神教の一種、ラムザ派の・・・」
 長い説明が終わった後、智子がいつもの、
「食べたら一緒やん」
 を言うと、それを合図に皆で、
「はい、いただきます」
 と言って、一斉に食べ始めた。
 サラダはやはりドレッシングが圧巻で、おばあちゃまも「大好き」と感嘆していた。また婿ポイント獲得。それから、智子の山菜てんぷらも素晴らしかった。前々日に智子が埼玉に仕事で行ったときに、大量にもらって帰ってきたのだ。
「秩父の森はすごいわよ」
 と智子が楽しそうに言った。たれもピリ辛で美味しかった。
 だがそれも束の間、マリーが悲鳴を上げた。
「どうしたの、どうしたの」
 と皆で騒いでいると、マリーが食べかけのじゃがいものてんぷらをお皿の上に置いて、お箸のサキッチョでつついていた。そう、智子は輪切りにしたポテトもてんぷらにしたのだった。
 マリーのポテトを見ると、衣が取れかかって、マリーの歯型がついたポテトの表面に茶色い線で描かれた、何か絵のようなものが見えた。
「ああそれ」
 と智子が笑った。
「マリー、大当たり!」
 おばあちゃんが覗き込むと、ポテトの表面にはバジの顔が描かれていた。マリーが鼻の部分を噛みちぎってしまっているが。
「いや、ね、遊び心でポテトの内一枚だけに熱したコテでパピの顔を描いてみたのよ。さすが娘だけあるわねえ、マリー。大当たりじゃない、やるじゃない」
 と智子が嬉しそうにして、バジも微笑んだ。マリーも一緒に笑ってパクリと残りのポテトを食べてしまった。

マリーゴールド (四十三)

それと、智子は『ここたき火』という玩具も持って来て、スイッチを入れるとガラスの小さなたき火にオレンジ色の光が点灯して、段々、周りがじんわりと暖かくなった。おばあちゃまは、
「最近こんなのもあるのね」
 などと言いながら、服もどんどん乾いていって、泥も案外きれいに拭えたので、金具が取れてヒールもかなり大胆に欠けてしまったサンダルのことは潔く忘れようと思った。まだ無惨な姿で玄関の外に脱ぎ捨ててある。
 そして、おばあちゃまは気さくだから、すぐマリーと一緒に入ろうと言ってくれた。普段はバジがお風呂に入れているが、おばあちゃまとマリー、一刻も早くお風呂に入らないといけないから、今日は特別だ。ネズミやらネコやらアヒルやらコアラやら、お風呂にはいろんなプラスチックの動物人形が溢れていて、さぞ楽しいのだ。シャンプーはカメの口から出るし、湯船の栓はコグマのみずきちゃんとイルカの健太くんの交代です。今日はどっちかな?
 お風呂から湯気ボウボウで上がったら、植物の甘い碧い香りが家中に充満していた。嵐が通り抜けた庭をバジが刈り終わって、食卓には風で落とされた庭のプルーンの実が木のボウルに盛られて、少々傷んだ皮が黄紫に光っていた。
「デザートね」
 と智子が言った。
 日もどっぷり暮れて、明るい月が出たころ、夕食の用意ができました。今日の晩ご飯、智子特製の山菜てんぷらと、バジ特製の哲学サラダ。てんぷらのたれは、胡椒と南蛮酢を合わせた粋なソース、サラダのドレッシングは無花果とサイモン・グラス(人参の一種)を合わせたカクテル風ドレッシングで、おばあちゃまは毎回バジ家に来るときはこのような、少し風変わりな食事を楽しみにしているのだ。

マリーゴールド (四十二)

マリーはおばあちゃまの首の高さから飛沫を上げる濁流を見下ろして、
「チョコだよ、美味しそう!」
 とはしゃいだ。おばあちゃまはとてもとてもそれどころではなくて、息切れして気分がかなり悪くて、吐きそうだった。
でも、後で二宮さん家の前にようやく差し掛かったとき、
「あれはチョコではなくて、貴女も私のことも殺せる、荒れ狂った泥水だったのよ」
 とマリーに言い聞かせると、きれいさっぱり、完全に無視された。
 やっとの思いで家に着いたころには、もう雨は止んでいて、今度こそ本当の夕暮れ時で、夕焼けが紅鮭よりも赤く大きく爛れて、西の空一杯に広がっていた。遠くの山際では、カラスの大群が会社を興して「付加価値」「付加価値」だの騒いだり「凍結」「凍結」だの「決算」「決算」だの大声でもめている。マリーもおばあちゃまもびしょ濡れで、寒くて、辺り一面白い水溜まりができていた。
 門の脇のピンポンを押すと、ハーイは―いと智子の声。玄関のドアがみっしり開くと、
「智子、すんごい雨だったのよ、傘も途中で投げ出すしかなくって、ね、マリー」
 とおばあちゃまが言った。智子はもう既にたくさんタオルを用意してくれていて、マリーもおばあちゃんも玄関に上がるや否や、タオルの嵐に見舞われて子犬か、もしくは子犬のぬいぐるみになったのかと思った。

マリーゴールド (四十一)

二人は泥の中、雨の中、風の中、黒い傘を激しくはためかせながらお家に向かって歩いた。おばあちゃまッたら、よりによって今日は気張って白い高いヒールのサンダルを履いてきてしまったばかりに、足がぐらついて、ヒールもポッキリ折れそうで、歩くだけで相当苦労した。といっても、裸足になる訳にもいかないし、もう大変。マリーだって、金色ピカピカのおニューのお靴がぐじゅぐじゅの泥まみれになってしまって正直、信じられないほど、耐えられないほど悲しかったです。
 歩き、歩き続けます。気が付けば、傘が気のふれた黒アゲハ蝶になって勝手に飛び立ってしまっていた。風で運ばれて、広場の遠く向こうの方に真ッ逆さまにフワフワと木の枝の中に着地した。おばあちゃまは、
「ま、いいか」
 と言いながら、マリーを更に引き寄せた。傘がなくても大丈夫、マリーもおばあちゃまも屈しない。一歩ごとに、もうお家に近づいているのだ。マリーもおばあちゃまも速くは歩けないが、それでも歩いてはいるのだし、雨だって、ここまでくると全身が洗われるような気がして、気持ちさえよかった。
 途中、ロケット公園の出入り口付近の橋のたもとに警官が一人で立っていた。黒いヘルメットからは雨水が永遠とツララになって、そのつららの奥から冷たい爬虫類の目でマリーとおばあちゃまを見ると、
「はい、気を付けて下さい。川の水位が非常に高くなっています、礼」
 と見えない口でしゃべった。おばあちゃまは深々とお辞儀をして、
「はい、ありがとうございます」
 と言って、マリーと一緒に前を通り過ぎた。この川は、普段は玩具の小型ヨットや桃太郎がたくさんプッカリプッカリ浮かんでいるような平和で微笑ましい川なのだが、今日は緑茶グレーの大きな泡だらけの濁流に大変身をして、橋の表面まで水が入り込んで、蛇のごとく幾筋にも分かれて這い廻った。こうなったら、と決心したおばあちゃまは、
「よいショ」
 との掛け声と共にマリーを担ぎ上げて、マリーちゃんの黄橙のパンツも丸見えだったが、そのまま抱っこして走りだした。命懸けの橋渡し、もう顎がジンジン、サンダルの足は競馬馬の前脚よりも速く交互にステップを踏みましたよ。

マリーゴールド (四十)

「マリー、マリー!」
 どこからともなく声が響き渡り、風雨の中を明るい影が動き回る。でももうバジとバジの一行はどこにも見当たらなかった。マリーもおばあちゃまもずぶ濡れで、いつでも泣く準備、満タンでした。
「智子、バジさん、マリー」
 おばあちゃまが暗がりの中を呼ぶ。ただただ地面がゴボゴボと水を吐き出すばかりで、小鳥の一羽すら鳴きませぬ。
 試しに、
「おーい、お茶、ホケキョ、ホケキョ」
とおばあちゃまが呼ぶ。そして更に実験的に、
「おーい、カレーとナン」
 と呼んでみた。そしたらその途端、頭上で大きな爆発的な稲妻が走って、と思ったら、実はそれは超巨大型双生児ロケットで、家ほどの大きさのロケットが二台連なって、地上へフル・スピードで急降下してきて、その途轍もない大きさの胴体をおばあちゃまの目と鼻の先に見せつけた。と思うと、凄まじいエンジン音を轟かせて、また空高く上昇して行き、雲の中へ消えた。
 馬鹿にするのでない。私は戦時中、アメリカ軍の機関掃銃を生き延びたのだぞ、とおばあちゃまは小さく吐き捨ててやった。が、ありがたいことに、双生児ロケットの巨大なお尻の明るい炎のお陰でマリーの居場所が一目瞭然、すぐ近くにいたではないか。一方、バジたちは一瞬だけだが、かなり遠くに確認できた。何やらバジを担架に高くかついで公園裏の森へと消え入ろうとしてた。智子らしき漆黒の後ろ髪も見えたが、すぐに風雨の中にまぎれて見失った。
 ロケットが行ってしまった後はまた大雨の暗がり、幾らおばあちゃまが、
「待て!この待て!」
 と叫んだところで、誰も現れませんでした。もう暗いし危険だし、丈夫な黒い方の傘を東屋に取りに戻って開いてから、マリーの手を素早く握って、早々出発進行。

マリーゴールド (三十九)

おばあちゃまが、信じられないという顔で智子の素顔を見極めようとする。でも横顔や後ろ姿の一部しか見えない。
「マミも?マミも?」
 とマリーが不幸そうに見詰める。マミも、であれば酷過ぎる。何してるのよ、ちょっと。見て、パピ。パピが地面の泥を直接飲み始めた。バジのピンクの口の中がコーヒー色の泥で一杯になっている。コーヒー・クリームと考えれば、泥だってそう不味くはないのだろうが、実際は違う、全然違う、冗談ではない。風雨は益々強まって、東屋の屋根も柱も抜け落ちてしまいそうだ。
 マリーはもう堪らなくなって、
「パピィ!」
 と叫びながら、東屋の半壁を器用によじ登って乗り越えて、東屋の外に飛び出した。だが着地に失敗、転んで、智子撰のワンピースの色合いに、泥色・茶色がかなりの比重で加わった。それでも泥は案外すぐまた雨に流されて、元の色がほぼ戻った。でも、そんなことはどうでもよかった。マリーが再び立ち上がって泥の中を走りだすと、
「マリーちゃん、溺れる!」
 とおばあちゃまは素ッ頓狂に裏声を張り上げて、もうこうなったら仕方がない、唇を噛み締めてから入口に立ち、段を小股に駆け降りて外に出た。傘を差したら、すぐに薄ピンク色の皮は風に破れ、もぎ取られ、無残にも銀色の骨が剥き出しになった。
すごい悪天候。
「パピィ、パピィ!」

マリーゴールド (三十八)

「バビ」
 ともう一度マリーが今度は本当に弱気な声でささやいたから、おばあちゃまは慌てて我に返って、咄嗟にマリーの両目をカサカサの掌で覆ってこれ以上父親の苦しみを見ることができないようにした。
 雨は東屋の軒から大粒になって落ちて、遠くの空にはロケットの尾ッポらしき淡い閃光が拡がっては消え、拡がっては消え、やはり不穏な空気は払拭できず、それに加え、泥の中のパピ、あれは本当にバジさんなのだろうか。雨は益々強くなる一方で、まだ日没でないのに辺りはもう真ッ暗だ。気温も下がって、マリーの腕も瓜のように冷えた。おばあちゃまの疲れた掌がマリーの両目からはらはらと振り落ちた。
 あ、バジがもがいている。泥が空中に撥ね上がって。茶色、黄色の泥。その中をバジがほとんど泳いでいる。上から押さえ付けられてもいる。オイ、上から押さえ付けられているなら、下に潜れ。逆から攻めろ。でも、下には地面が不屈に構えているのだ。バジさん、貴方はよく「打破、打破」なんて言うれど、実際はとても難儀なことなのですね。
 押さえ付けているのが誰なのか、雨で濡れ過ぎて、暗くてよく分からないのだが、インド人にも見える。否、でも日本人らしき影も見えるし、と言い始めれば、そう簡単には判別がつかない。ときどき一人の罵声が聞こえて、ただ何語か本当に分からないのだが、その都度周りが恐ろしいほどの声量で掛け声をかけながら、蹴る、踏み付ける、靴の裏で撫で回す、の暴行を加える。その度にバジは全身を震わせて、泥を土を飲み込んで、靴の底を舐め回して、笑うしかなく、でも泣きもしていて、でももうそれ以上泣けなくて、急に暴力が止んだと思った途端、また新たに一発蹴られた。
 あ、ちょっと待って下さい。智子も暴行する側に加わっていませんか?
「智子」

マリーゴールド (三十七)

流石のおばあちゃまも、もうお手上げで、
「いいの、いいのよ」
 と言いながら、マリーをとにかく全身で包み込んだ。おばあちゃまの春巻き戦法は覿面に効果をあらわして、マリーは身体も心もぽかぽか温まって、またコロコロ笑い始めた。
 それからコンドル頭をまた舐め舐めして、それが甘くて美味しくて、きゃっきゃきゃっきゃ言って、おばあちゃまに抱き付いた。
 コンドル・パフェの最後の残り、とんがったコーンの茶色い先ッポをマリーが呑み込んだころには、時間はまだ遅くはないのに、もう外が暗くなり始めていた。雲が厚く厚く、雨もどんどん強く降る。でも、耳を澄ませて水の音を聞いていると、心が洗われるようだ。早く雨足、弱まってほしいと願いつつも、マリーもおばあちゃまもうっとりとなって、美しい雨の一時を過ごした。
 すると、思いのほか近い距離から、いがみ合いの声が聞こえるではないか。男らの声でカッカカッカ言っている。何だろう、降り頻る雨がうるさ過ぎて、はっきりとは聞き取れない。が、かなり近い。マリーは思わず怖くなって、おばあちゃまに擦り寄ろうとしたら、先におばあちゃまの方から勢いよくぶつかってきた。おばあちゃまはしゃがみ身を低くしてからマリーの腰に手を回して、じっと様子をうかがった。雨は一瞬、雪と思うほど白味がかった。
 雨の中から少しずつ、靴の踵と爪先が複数浮かび上がった。茶色や黒の靴。そしてなんと、そのすぐ先の地面にはバジの黒い顔があった。マリーも見ていて、
「パピ!」
 ときつく、ささやいて、おばあちゃまの手を固く握り締めた。バジは地面に倒されて、蹴られたり、首筋を靴の腹でゆっくりと残忍に撫でられたり、罵声を浴びせられたり、何の言葉かこそ分からないが、決して良くない言葉であるのは容易に想像できた。二人は沈黙したまま、何も言えずにもう暫く傍観した。

マリーゴールド (三十六)

おばあちゃまは何とかしてマリーを励まそうと、助けようと、考えを巡らせて、
「でもカレーの匂いってことは、パピに近いってことじゃない。パピィになれるってことじゃない」
 と言った。でも考えが熟す手前で喋り始めてしまったので、賢いマリーに聞き返されて、二度同じことを繰り返した。マリーは少し待って考えてから、
「じゃあマミは?」
 と聞き返してきた。何の質問なのかすぐに分からなくて、おばあちゃまは一瞬思考が止まったが、すぐまた動きだして、
「マミは、ナンだものねえ。でもほら、レストランゲームよ。ナンだってカレーと一緒に食べるじゃないですか。だから、ナンだってカレーの匂いがするのよ。もう皆、パピもマミも、マリーと一緒よ」
 と言った。マリーの喜ぶ顔が見られると思って、晴れ晴れとして胸を張っていたら、マリーが全く正反対、極めて困惑・混乱した顔を見せて、
「マリー、カレーの匂いなんてしないもん!」
 と言い放ってから、泣きだしてしまった。
おばあちゃまは慌ててマリーの甘栗色の髪を力一杯、痛いぐらい撫でて、
「そうよ、その通りよ。カレーの匂いなんてする訳ないのよ。もうそれは言われもない、とんでもない当てこすりです。カレー臭いなんて言った奴は正真正銘の、井の中の蛙ね。地獄へ落ちればいい!」
 と烈しく言い放った。するとマリーはまた更に困惑してしまって、
「だけど、パピもマミもカレーの匂いがして、マリーはしないの?マリーだけ、何でしないの?やだ」
 と問いかけて、四分の一ほどになった小さなコンドルを握り締めながらまた泣いた。そこへ東屋の屋根裏からアマガエルが十匹ほど一気に飛び出して、マリーの顔すれすれを掠めて飛び跳ねて行ったものだから、今度は驚いてマリーは大声でぎゃあぎゃあ泣いて、口が裂けた。アマガエル達は静かに一目散に雨の中へと散って消えてしまった。

マリーゴールド (三十五)

大気が張り詰めたように止まったかと思うと、もう大粒の雨が降り始めていた。東屋に入っておいて、丁度よかったじゃないの。屋根に雨が何筋も流れる音がして、目の前が霞んで、一瞬だけだが新幹線が何本も出入りしたり、いきなり舞子が来て酒を注いだりした。と同時に、近くの緑の葉は青青と迫り出して、一気に生命力、存在感を増した。
 ロケットたちは、忽ち雲の向こうへと沈んでしまい、もう噴射の音でしか見分けが付かなくなった。それは旗が振り切れるような、布が引き裂かれるような音だった。
 コンドルの指、爪の部分に噛みつきながら、おばあちゃまがマリーに、
「保育園、たのちい?」
 と訊いた。バジに幼児語を使うのは遠慮して欲しいと言われているのだが、どうしてもマリーが可愛くて、使ってしまう。マリーはコンドルの目と耳の後ろの辺りを暫く舐めた後、
「あのね。この前鬼ごっこしてたらね、カレーの匂いがする、って言われて、それでマリーが鬼になったの」
 と楽しそうに話した。おばあちゃまが焦って、
「誰に言われたの、どこで」
 と急いで聞いたら、
「ハムスターのね、ガリのね、お墓の上。お年長さんたち。柿組の園子ちゃんたち」
 と答えた。おばあちゃまが、
「男の子?女の子?」
 と訊くと(少なくとも園子ちゃんは女の子ですよね)、
「分かんない」
 と返ってきた。おばあちゃまはマリーが可哀想で、興奮しながら頭の中が一杯になって、
「酷いわね、酷いわね」
 とひたすら繰り返した。余りにも激昂して、コンドルの頭に勢いよくかぶりつき過ぎて、頭半分が割れて、音も無く滑り落ちてしまったではないか。外れた嘴と目・鼻半分が木目の床に転がって静止した。マリーが、
「あ」
 と言って、おばあちゃまが、
「プ」
 と吹き出したころには、下に落ちたおばあちゃまのコンドルの頭半分は集る蟻で真ッ黒になっていた。でもそれとほぼ同時に、頭の内部からバニラアイスが大量に溶け出して、黒蟻らが次から次へとアイスの雪崩に押し流されて行った。あれよあれよという間にアイスが全て吹き出して、蟻たちは幾つかの黒い塊になって、食べ物のまっただ中で溺死してしまった。コンドルの、決壊。責任者は誰だ?

マリーゴールド (三十四)

マリーとおばあちゃまは手を繋いで、慌ただしく火花の降り注ぐロケット公園中央を颯爽と歩いて行った。
 急にマリーが、
「お腹すいた」
 と言うと、おばあちゃまは、
「ようし、自らの欲望に正直なのはよろしい」
 と、口の両脇に八の字を作って是認した。
「何とかしなきゃね」
二人はそのまま歩いて、公園直営のオープン・キャフェで茶色い三角コーンに入ったコンドル・パフェを買って、歩きながら食べた。
 コンドル・パフェとは、バニラのソフトクリームに沢山コーンフレークスを貼り付けて、その上に更にカラメルとチョコソースとイチゴソースを交互に絡め付けてコンドルの顔を模ったデザートの傑作だ。嘴は美味しい、硬いナッツでできていた。見かけはものすごく怖かったが、一度食べてしまうと次また頼まない訳にはいかない代物で、ロケット公園でしか売っていない。
 二人はコンドルの頭頂・嘴を舐め舐め、舌で突ッついたり撫でたりしながら、ゆっくりと公園北側の東屋の方へ歩いて行った。さっきまで晴れていた空にはまた厚い雲が垂れ込んで、りんごビール色の太陽の光が鈍く甘く降り注いだ。東屋には誰も居なくて、多角形の骨組みと丸みがかった屋根が、白く不明瞭に浮かび上がった。
 木の小段を四、五段登るともう東屋の中だった。吹き曝しではあるのに、東屋内部は少しばかり外気より気温が低くて、キノコ汁に似た香ばしい匂いが充満していた。

マリーゴールド (三十三)

おばあちゃまが遊びに来ているから、連日夜はご馳走で、マリーのお腹はゴボゴボ吹きこぼれそうになっていた。土曜日の今日は、お昼の七色おそうめんを食べ終えて、マリーとおばあちゃまはロケット公園までお散歩に出掛けた。空では六月の雲が少しずつ晴れて、水っぽい太陽が小鳥や虫と一緒に飛び回った。
 ヒュルヒュル、ビュルビュル、ミュルミュル。周りでは微風の中、赤い頭やら青い頭をしたロケットがどんどん飛び立って行く。小さいものは親指ほどの大きさから、ちょっとした一軒家ぐらいのものまで、それぞれ空に向かって放たれる。炎は青や赤や黄色にボウボウ怒って、空はお祭りのようでも、戦争のようでもある。
危なくないのか?それは、危ない。でも、マリーとおばあちゃまは、敢えてその危険を冒す女たちなのだ。ただ、そのことをマリーもおばあちゃまも億尾にも出さなかった。
ロケットたちもロケットたちで、機械や金属の独特な強さで、高く遠くへ飛んで行った。どこに落ちるかも分からないのに、飛んで行くのだ。
 無謀か、勇敢か。どちらかと言えば、それは、無謀だろう。地上にどうせ戻って来て落ちるのだから、それでも飛び立つなんて無謀だ。でも、飛び立つ前の地上と、落ちて来た後の地上は、同じ地上でも異なる地上ではないか。例え全く同じ地点に舞い戻ったとしても、離脱・着地という極めて危険なプロセスを踏んで来ている訳だから、もう同じロケットではないし、地上自体も、もはや今まで通りの場所ではなくなっているのだ。それも、空中分解などせず、無事帰還できた場合に限られるのだが。

マリーゴールド (三十二)

 

群青色の鮮やかな耳飾りをして、濃い紫と金の大胆なワンピースの下から艶々した紅茶色の脚をのぞかせて、太陽の中を颯爽と歩くマリー。マリー嬢、二十歳。マリー嬢、二十一歳。足には黄金のつっかけ。大きなクジャクになるのだ。
 ワッサワサ、ワッサワサ、それから、クワクワ、カー。飛び立った。
 これがマリーの十六年後、十七年後の姿だ。だが今は、マリーちゃん、四歳・カハハ。今日はピンクと黄色とオレンジのものすごい色合いのドレスを着て、新品のゴールドの運動靴で飛び跳ねている。智子が最近カラーコーディネートの勉強を始めて、家中を色で埋め尽くしていた。マリーの服も、家の中とのカラーコーディネートなので家の中に居る分には良いのかもしれないが、家の外から出た途端、すぐ絵の具の塊のようになるのだ。特に家の近所をそれで歩くとひと際目立って、犬はまだしも、猫にまで吠えられた。嗚呼、驚いた。
 が、今日はおばあちゃまが一緒なのだ。おばあちゃまが一緒だと、何でもありなの。受け入れてくれるの。
おばあちゃまが一緒だと、マリーはいつもスキップしてしまう。智子の前でスキップしても、やがては「元気ねえ、子供っぽい」みたいな冷たい目で見られる。バジの前でやっても「もっと高く!ジャンプ・ハイアー!」と一方的に早口で言われるだけだ。だが、おばあちゃまは一緒にいつまでも「ぴょんこ・ぴょんこ、ぴょんこ・ぴょんこ」と音頭を取ってくれて、満面の笑みで見守ってくれる。おばあちゃまは居場所を作ってくれる。

マリーゴールド (三十一)

マリーは満面の笑みでまた朝日の円盤の中に入って、「やった、やった!」と肘と膝でダンスをしていた。
バジはお家に一人残されるのが堪らなく淋しかったが、ここは我慢することにした。逆に気持ちがすっきりもした。自由になれる。そしてその自由を独り占めするのだ。すぐにマリーの着替えや玩具やご本を白・黒・赤のマオリ模様の鞄に詰めて、マリーにきれいな、真ッ黒なぴかぴかのバレイ・シューズを履かせた。
 バジは最後に、
「じゃあ、智子さん、ブライダルの小山さん連絡入れとくだから」
 と言った。智子は、
「ありがと」
 と一言放って、顔を引き攣らせた。マリーは智子の手を強く引っ張って、
「マミィ」
 とだけ、呟いた。
 智子は何とか笑顔を作って、マリーにもバジに手を振らせた。バジが遂に玄関の扉をギイと閉めたのは、二人の後ろ姿がコトリ美容院の角に隠れてから、何分も後のことだった。
 ブライダルの小山さんに連絡を入れたら、また異常に優しくしてくれて、事情を話したら暫く休暇をくれると言って、『主我を愛す』を熱唱されてから電話を切った。
 おばあちゃま、おばあちゃま。
幾ら呼んでも、おばあちゃまは戻って来た。えッ、来た?いや、来なかった、でしょう。確かに正しくは戻って『来なかった』だけれども、花びら占いをしたら戻って『来た』だった。

マリーゴールド (三十)

そこへマリーが蝶のようにふらふら入り込んで来て、
「見て見て、マリー、とんぼになっちゃった」
 と言って、くるくるとわざと下手に回転してみせた。
 バジは見かねて、
「マリーゴールド、ふざけるな。部屋に戻って」
 と叱ったら、
「やだやだ。マリー、また仲間外れになるの、やだ!」
 と一人泣いて、走ってテーブルの下に潜り込んで、そこで動かなくなってしまった。
 智子は急いで荷物の用意をして、黒白の水玉ワンピースを着て化粧も軽く、涙を拭きながらすぐに玄関に立った。
「じゃあ行ってくるわね。夜は戻らないかもしれない」
 バジにはそう言って、マリーには、
「マリーちゃん。マミ、行って来ます。また戻るからね」
 と言った。するとマリーは案の定、
「マミ行くの?マミ行くの?マリーも行く!マリーも行く!」
 と叫びながら、また半泣きになって脚に抱き付いてきた。バジが手を差し伸べてたしなめようとすると、マミはそれを制止して、頭を震わせながら、
「じゃあマリーも行こう!」
 と、きっぱりはっきり言った。
 バジは、
「そんなの、マリーにはまだ見せない方がよいでしょう」
 とか、
「病院行って変な病気でもうつされたらどうする気」
 とか言っていたが、智子は今度こそは馬耳東風、
「いや、見せておきたいの。見せられるものは見せておいた方が、良いと思うの」
 そして、
「それにお母さんだって、マリーの声で、目が覚めるかもしれないし、万事、何が良いか悪いか分からないのよ」 
 と付け加えた。バジはただ智子の目を見詰めて、手を握り締めるしかなかった。

マリーゴールド (二十九)

いいね・いいね、マリーはOK。問題は智子さん。顔面蒼白、目はテニスボールで、
「はい、すぐ行きます」
 と言って電話を切った。てっきりブライダルの小山さんから、珍しくクレームの電話が入ったと思い込んでいたバジは、
「今から行くの?軽井沢」
 と瞬きをしながら聞くと、智子は、
「違う、違ったのよ、警察病院、から。お母さんが。お母さんが!」
 と、答えかけて、過呼吸になって息詰まった。バジは驚いて「ゴエ」と言ってしまった。おばあちゃま、警察?詳細を聞こうと思って眉を上げるが、智子はマリーの方を窺いながら目を泳がせている。
マリーは傍若無人に手と手を合わせて頭の上に蓮の花の蕾を作りながら、さも楽しそうに朝日の中を歩き回っている。
その隙を狙って智子がバジを強引に引き寄せる。首を首に近づけて、智子は震える喉元から、バジの耳にささやいた。
「お母さんがね。お母さんが、ぶつかったの。意識不明の重体って言うの?今朝早くに自転車に乗ってたら、今朝路上でキャンプをしてた人たちの、一番大きなテントに激突してしまったらっしい。そのままテントごと全部引っくり返って―」
「訳分からない。嘘でしょ。路上でキャンプ、TENTS?」
 バジが全く信じられないという顔をすると、智子はすごい涙目で睨んできた。
「この世の中、そういう奇妙な、奇想天外なことだって起こり得るのよ」
 バジは急に涙が込み上げてきて、色々なことが思い出されて、無言で何度も頷くしかなかったが、一方では、路上でキャンプというのはホームレスの人のことかな、とか、でも自分の日本語や日本文化の知識がまだ不足しているから自分には理解できないのか、残念&悔しい、とか色々と考えが心の中で巡ったが、今ここで、口には出さなかった。
「お父さんは、嗚呼、ああなっちゃうし、お母さんはこうなるし、私、私、一体どうしたら良いの」
 智子の顔に大きなばってんが現れた。それから、イカ墨のような黒緑の液体が顔中・身体中、点線を描いて駆け巡った。

マリーゴールド (二十八)

智子がものすごい剣幕でトイレと水面所を行き来して、湯水の音をじゃぶじゃぶと響かせ始めた。智子が居なくなって寝室が静かになったから、バジはもう諦めて、目を閉じてまた少し寝ることにした。
 とそこへマリーが、
「ねえねえ、ねえねえ」
 と、可愛いマリーちゃんがまたやって来ました。バジはまだ眠りこけていたが、マリーは眠そうな、幸せそうなお声で、
「ねえねえ、パピィ、トトロが鳴ってるよ。鳴ってるよ、鳴ってるよ」
 と言った。バジがしぶしぶ上半身を起こした傍から、壁の向こう側から『トットロ・トットーロ、リンリン。トットロ・トットーロ・シャンシャン』という智子の携帯の呼び出し音が聞こえてきた。
 マリーは次に智子の足元に走って行き、
「マミマミ、トトローが鳴ってる。鳴ってるよ」
 ともじもじ、ささやいた。智子は水道を止めて、顔を濡らしたまま、ものすごい、醜いしかめっ面を作りながら、
「もう!もっと大きな声で言って」
 と、リビングの方へカンガルーのように、斜め横向きに飛び跳ねて消えた。マリーも遅めの蟹歩きで後ろについて行った。
 智子がいつもの引き出しの中から携帯を取り出すと、
「トットロ・トットーロ、シャンシャン。トットかち」
 と音が大きくなって、切れた。バジが寝室のカーテンを開けると、どぎつい太陽の帯が射る。夏だ。
「はい」
 リビングルーム・キッチンまわりでは智子が電話に出る声がして、そのすぐ傍でお皿の山が崩れる音もした。一体何をやっているのか。後ろではマリーが智子の真似して、小声で「ハイ、ハーイ」と言っているのも聞こえた。智子が再爆発する前にマリーを引き取らなければ、と思い、バジは重い体を引きずって明るいリビングルームに登場した。マリーを見ると、五時間も寝たか寝なかったかの筈なのに、朝日の中で、元気よく小股に飛び跳ねていた。

マリーゴールド (二十七)

バジがトイレから出てきたら、智子はベッドの中で布団を鼻まで被って寝てしまっていた。
「ちょっと!智子!」
「ちょっと!智子!起きて!」
 バジが二度呼び掛ける。時計では午前五時半を過ぎています。
 智子は薄ら目を開いて鼻で息をしてから、
「目が回った」
 と言ってから、一秒空けて、
「待って、六時一〇分まで寝ることにしたの。時計合わせ直したんだから」
 と呟いた。バジは念のため、
「間に合うなりカ?」
 とひょうきんに聞いてあげたが、答えはなかった。
 バジは仕方なく肩を落として、
「やめといた方がいい、思う」
 との独り言と共に、そのまま智子の隣に潜り込んだ。温かい。
いやあ、疲れた。『マリーと夜更かし』になってしまった。それか『マリーと夜の仲間たち』だろうか。いや、違う。『マリーと夜なべ』、でしょう。知らない、知らない。さようならっプ、おやすみなさい。
 智子もバジも散々鼾を掻いたと思ったら、午前も酣。早朝のスズメもカラスも、もうとっくに出張やらアポに出掛けてしまって、代わりに電線の上に、太った鳩の群れがぽっぽ・ぽぽっぽ鳴いております。
何時?十一時六四分、否、失礼、十一時四六分。
「十一時四十六分?ヤダー・ヤダー・ヤジャー!!」
 と、智子が床を蹴っている。バジが薄ら目を開くと、智子が仁王立ちになって台所から取ってきた超巨大電子時計を掲げてこちらに見せていた。時間は一一時四八分三〇秒三厘、はい四、五、六厘、やったね。やってしまいましたね、遅刻。キツイわ・大胆な寝坊・万歳!

マリーゴールド (二十六)

急いで二人は一緒に起き上がって、立ち上がって、競い合って這うように寝室のドアまで進んで廊下に出て、廊下の電気を燈して、肘でへし合いながらマリーの寝室に駆け込んだ。
マリーちゃんはちゃんと自分のベッドの上で、もうぐっすり、深い寝息を立てて寝ていた。まだ涙の跡が顎の周りに少し付いている。智子は優しく自分のパジャマの袖を丸めて拭いてあげた。それでも起きない。マリーの寝巻きのカバやサイや象たちが、廊下からの静かな光を反射してニコニコ顔のまま散らばっていた。
バジは溜息をついて、智子も溜息をついて、二人は無言のままマリーの上にチベット曼陀羅のタオルケットを首まで掛けてあげて、部屋を出た。ドアが軋んでもマリーは目覚めなかった。いつも明け方はそうであるように、森の怪獣と白い蝶々の夢を見ていたんだろうから。
立ち止まってふと気がつくと、廊下にリビングルームから朝の光が差し込んでいた。鳥の声なんかも聞こえる。オートバイの音もした。
「や」
 智子の舌打ち。
「もう夜が明けてるじゃない。今、今、何時?」
 バジが寝室に戻って時計を見ると、何と朝の五時二十二分だった。バジが智子に伝えると、
「やだ、あと八分で目覚ましが鳴るわ」
 と智子の声も割れた。バジがじっと様子を窺っていると、智子は、
「えいちょっとそこ、突っ立ってないでよ。早く、早くして。時間ないのよ。仕事があるんですからね、勘弁していただけませんか、はいはいハイハイハーイ!」
 などと一人でパニックに陥って、竜巻のように同じ個所で回転しだした。バジは見かねて、無言のままトイレに入ってしまった。

マリーゴールド (二十五)

バジはマリーに辛抱強く聞く。
「何て?」
 マリーはマリーでまだ下火で泣き続けて、
「だってね、おばあちゃまが、マミはナンで、パピはカレーなのよ、って言ってたの。で、マリーはナンでもカレーでもないの。だから、マリーはいっつも仲間外れなの。でもそれでいいんだって」
 と言った。バジは無理に笑って、
「ううん、マリーはマンゴラッシーから、一緒」
 と言った。マリーは一瞬笑顔を見せたが、それは実は悲劇のための顔だったらしい。すぐ、
「やだ!マリー、それやだ!」
 と、言ってバジの腕の中で暴れ回った。
「やっぱり仲間外れになった!もう分かった」
 と鈴虫のような高音で泣きながら。
 智子がもう疲れて顔が引き攣ってきて、バジの方に向かって、
「もうレストランごっこのこと、一から説明しましょうよ」
 と投げやりに言ったが、バジが吐き捨てるように、
「四歳に分かる訳ない、話しても」
 などときつく言ったから、智子もむきになって、
「分かってるわよ、そんなこと。駄目もとで言ってるんでしょうが」
 と喰いついてくるから、バジもバジで、
「駄目もととか言って、さっきは分かってなかったくせに!分かってないときは分かってない、はっきり言おうよ」
 と睨んでくるから、智子は歯を剥いて、
「分かってるわよ、偉そうに。すぐ人のことそうやって馬鹿にしやがって」
だの何だの言うから、バジもどんどん辛口になってきて、
「違う。さっきの話をしてる。馬鹿しはてなはどっち」
 とか言い始めて、それに対して智子も、
「あのね、あなたの日本語よくわかりません。ていうか何だよ、お前さん、馬鹿はてなって。受けるんですけど」
 と笑うと、バジは、
「単に口が滑っただけ。ていうか、智子日本語しか喋れないくせに」
 それに対して智子は、
「何だと、全然分かってない。歌やってるから、英語・イタリア語・ドイツ語・フランス語・スペイン語・ラテン語何でも来いよ。ぺーだ。クラシック歌手を馬鹿にすんな。何言ってんの?」
 バジはバジで、
「でも喋れないでしょ。発音知ってるぐらいでしょ。しかもクラシック歌手って、智子、ただ結婚式で歌ってるだけじゃんね。マリー、マミそうだよね」
「何よ、卑怯な。あんたこそ博士号まで取って何してんのよ」
「マリーのための教育と研究」
「冗談はよして」
「冗談じゃあないね」
「何をまた。世が世なら」
 などとまた言いだすから本当に収拾がつかなくなってしまった。
と、はっと気がついたらマリーが消えていなくなっていた。ライオンの陰にも、ベッドの上にもいない。

マリーゴールド (二十四)

マリーはバジの腕の中でもう顔半分が涙で濡れて、一生懸命小さい口で、
「分かるもん、分かるもん。やだ。やだ」
 と口ごもりながら泣きじゃくっていた。それで更に智子が刺激されて、智子は無言で急に立ち上がって歩き始めたと思うと、廊下に面したドアの方に走って行って、ドアを全開にしたと思ったらいきなりワザと大きな音を立てて閉め直して、また半開きまで開いて、ぷんぷん怒りをひるがえしながらベッドの上に舞い戻った。
 マリーはびっくりして、鼻水が逆流してしまって、ごほごほ咳込んでいた。バジはマリーのために、『リンゴ・バナナの花園で』の歌詞をモーツァルトのダブル・ピアノ・コンチェルトのロンドのテーマに載せて口ずさんだ。楽しいメロディーと歌詞なのに、マリーは泣き止まなかった。智子は呆れてベッドに平伏していた。
 バジは今度は自分自身をも落ち着かせようとして、マリーに質問してみた。
「何で、レストランごっこがしたいの?」
 と、できるだけ具体的に。するとマリーはまたしゃくり上げて、涙がどんどん出てきて、
「だってね、だってね」
 を繰り返す。
「どうしたの、どうしたの」
 とバジが優しく、ややしつこく訊き続けると、泣くのが収まってきて、
「だってね、おばあちゃまが言ってたの」
 と言った。智子はまた横になりながら、そうら来た、と思った。ばあさんめ、ママめ!くせ者、優しいようで怖い、子どもの扱い方をてんで分かっていない、でもマリーから一番信頼されている。何を話したのか、もう知りたくもない。智子は急に気持ちが落ち込んで、頬っぺたが顔からそのまま滑り落ちて無くなってしまっても仕方がないと思った。智子は、バジなんか案外すごく鈍感だから分かりっこないわよ、わたしの苦しみ。何よ、何よ、と不思議と泣けてきてしまった。

マリーゴールド (二十三)

マリーはライオンの横から這い出て、智子とバジのいるベッドの端まで一気に近寄ってきた。そして、
「マリーも、今日はレストランゲームに入れて」
 と、首を傾げながら愛嬌たっぷりにお願いした。智子もバジも、心配で、恥ずかしくて、顔に血が上る、血が上る。
今日は・ですと?今までずっとあんなに小声で、気を付けてレストランごっこをやってきていたのに。
バジは咄嗟に機転を利かせて、明るく、
「マイ・リトル・プリンセス、ふっふ、ようこそいらっしゃいませ。ふっふ、今日は何を召し上がりますか、ふっふ。カリーになさいますか?カリーはカレーこと。あるいは、ふっふ、サラダになさいますか?ふっふ」
 と言い、マリーを抱っこした。
 智子は「何だそれ。気味悪」だの何だの舌打ちしていたが、誤魔化そうとしたのは偉いと思った。
マリーはバジに抱っこされて幸せそうに笑って、
「マリーはね、パンとね、パンの種とね、こじょをちょっととね(こしょうでしょう)、バイキンマンとね、トレーネとね、サグパニとね、あと、こち亀がいいの!」
 などと可愛く喋っていた。
 智子も明日の仕事がなくて精神の余裕があったら、もう少し周到に、もうレストランは閉店時間だからまた明日お越し下さいだの、何か気の利いたことを言えただろうが、もうそれを考えると余計イライラしてしまって、爆発した。
「何よ!何でまだ寝てないの!寝ないと耳が溶けるわよ!お尻もなくなるわよ!何よ、マリーも行くとか。『行く』の意味も分からないくせにねえ!えぇえぇ。トイレに行く時以外は、ちゃんとお部屋に戻って寝て下さい!」

マリーゴールド (二十二)

「クミンの実」
「サラダ、早くサラダ!」
「お豆、お豆!」
「ナンが千切れる、千切れる」
「カレーが浸み込んでどろどろ」
「やばい早くこれが」
「辛いはいかが?」
「カレー、アルー!」
「早く」
「辛いカレー行く!」
「行く?」
「行く!」
「行く?」
「行く!」
「行く?」
「行く!」
「行く?」
 そこへ無邪気な、可愛らしい声で、
「マリーも行く!」
 と、いきなりマリーが会話に飛び込んできた。どこ・何?やだ!智子が思わず裸の上半身のままで飛び上がって捜してみると、瀬戸物のライオンの置物の下に隠れたマリーがいた!こちらを見て歯を見せてニコニコ笑っているではないか。ちょっと待って、まずパジャマの上を羽織ります。ああ、指が滑る。そうしてから、
「何してるの、こんな所で!」
 と、叫びます。まだ小声ながら、絶叫します。

マリーゴールド (二十一)

助かった、おやすみなさい、と心の中で誓って足を伸ばしたら、突然天に昇った。成層圏に突入。その後、荒川の土手に到着、ザリガニの称号を得る。ああ、架空の経歴だ。夢。
 何かまた熱いと思って起きたら、いつの間にか智子の背中がバジの背中と完全にドッキングしていた。バジはすやすや眠っている。本当に楽しそうに眠る。智子は重い頭を起こしてカーテンの下を見たが、陽の光はまだない。まだ、夜か。一睡して大分体が楽になった。それから、また寝てしまった。
 それはいきなり始まった。どうにかして二人同時に目を覚ましたらしく、智子があれほど毅然と拒否したのに、今度は智子から転がって行って誘いをかけたようだった。あまり覚えていない。
「ねえ、レストランごっこしましょ」
「う?」
「ねえ、レストランごっこしましょう、あぁ」
「うん!」
「ねえ、レストラン、んン!」
「ウン!」
 ささやき声が終わると、暫く静かな口づけが続いた。やがてシーツがゆっくり擦れる音がした。そこから、暫くシーツが擦れ続けて、スピードも増して、ベッドが何度も軋んで、部屋の中はあまりにも暗いのて、部屋中に蒼い三角形や菱形が超音速で飛び回っているように見えたり、見えなかったりした。
 そしていきなり、半地声まじりのささやき合いがスタートした。心臓が、心臓が。
「カレーが!」
「あら、ポテトが!」
「あらポテトかしら、これ?」
「カレーとポテトが!」
「アルー」
「お豆がいたい」
「お豆が食べたい」
「いよん」
「うぉう」
「ドリンクは、いかが、なさいます?」
「わたしはいちごミルク」
「わたしも、いちごミルクで」
「待って」
「ナンとナンが!」
「待って」
「れん草」
「ホウが抜けたわ」
「あり、ナンは?」
「ナンがね、折り紙状態、ただ今」
「ナンが昏睡状態」
「カレーがどんどん染み込む!」
「ナンがもぎ取られていく!」
「湯けむりみずけむり!」
「いいお味よ」
「カレー味!」
「今日のカレーは熱いわ」
「ナンも」
「からっかあらら」
「あつっあつるる」
「辛い!」
「辛くなるよ」
 何とも表現し難いが、これが全部小声なのだ。でも口調は激しいしテンポも半端ではなくなってきた。千枚の羽根、千枚の舌。智子もバジも歓んでいる。

マリーゴールド (二十)

目を半分だけ開くとバジが部屋に戻って来ていた。と思ったら、また出て行った。智子は再び目を閉じた。
 気がついたら、バジが部屋の電気のスイッチをカチカチ鳴らしている。うるさくて、
「もう、何してるの」
 と言ったら、
「電球が切れた。切れてる。すごいね」
 とのことだった。
「一体、何がすごいの?もう明日にして」
 と言おうと思ったら、大丈夫だった。今はもう取り換えようとはしていない。ランプを消すと、智子の下半身に抱きついてきた。
「マリ子はちゃんと寝ましたか?」
 とマミが聞くと、パピは、
「ばちりこん」
 と下から答えた。丁度、臍の上に熱い息を吹きかけてくる。
 ばっちりとは。それはそれは。あんなに目を覚ませていたのに。本当に?でも永井荷風とかナサニエル・ホーソーンをいきなり読まれても、それは眠くなる筈だろう。眠くならない方が不思議だ。何しろ、向こうは四歳だ。宴会やら騙し合いやらの話を聞かされたところで、何のためになるのか。適当に聞き流してもらう分にはよいが、変に頭のどこかに残ってしまったらどうするつもりだろう。
 智子は自分の母親にこれまでに何度か相談してきたが、いつも人ごとのように面白がられて、仕舞いには「さすがバジさんったら相変わらず博学なのねえ」とか、酷いときには、「へええ、マリーちゃんも将来はマリー博士ね、博士夫人ドノドノー、ドシラソファミレド、ワン!」とか電話越しに冗談を言われるから、もう嫌になった。それから、これは関係ないのかもしれないが、最近通いだした保育園のお母さんたちからは遠巻きに無視されるし、でもこちらからも無視したいし、悩む。悩まない方がおかしい。いや、夜ぐらいはすやすやと寝かせてほしい、お願いだ。
 バジは全然、離れない。ますます吸いついてくるし、そのせいで暑い。しかも、せり上がってきていて、もう胸も、ドサクサに紛れて揉みだしているでしょう。息も深くて、荒めの様子。
「ちょっと」
 智子は言った。ここぞ自己主張。ここぞ、眠くて目が開かないが、自己主張。きっぱり、はっきり。
「今日は疲れたから、なし」
 と、伝える。しっかり、ちゃっかり、意志表示。そこはバジ氏は紳士だから、
「分かった、オキィ」
 と息を吸い込みながら引き下がった。ア、涼しい。こういうとき、頭の良い男は役に立つ。他の場面ではどうか分からないが。バジはベッドのできるだけ向こう側の端に移って、壁の方を向いて動かなくなった。スペースをちゃんと取ってくれている印だ。

マリーゴールド (十九)

智子も疲れてベッドの上で微睡みかけた。今日は、十四コマ立て続けに結婚式用チャペルで歌ってきた。皆十四組とも見事に同じようなホワイト・ウェディング・ドレスに、真面目なつけまつげと硬そうな前髪をぶら下げて、失礼ながら、そう大して嬉しそうでもない。
バジと智子は他にはない斬新でユニークな結婚式がしたかったから、丸ノ内線をまるまる一両、朝一番のラッシュ時に貸し切って、東京メガロポリスの地下をU字に走る間に挙式して、食事もあえてセブン・イレブンの餡饅と野菜おでんと、智子母特製のミックス・ジュース・ブレンドだったから、ホテルの嘘ッコちょきちょきチャペルで結婚するカップルなんかのよりずっと楽しかった。
服も、敢えてリラックスするためにTシャツとサンダルだったのだが、結構ラッシュ・アワーの電車の揺れが激しくて、一度すごく揺れたときにバジのおでんの汁が智子のTシャツの胸の部分にばっしゃりかかってしまったときも、バジは手早く自分のシャツを脱いで、自分の体で智子を覆い隠しながら瞬く間に智子に自分のTシャツを着せて、自分は代わりに智子の濡れたTシャツをめりめりと縫い目が破れそうになりながらも笑顔で何とか着られたときは拍手喝采、皆感動で大泣きした。特に、今は亡き智子パパがしゃくり上げて泣きました。お父さん、ネ。
いやあ、歌うのはだいたい大雑把に言えば好きだが、結婚式の礼拝で歌うのは疲れる。いつも同じ賛美歌を、他に誰も歌わない中、歌う。ソロとは違ってあくまでも雇われボイス、BGMと同等または以下だ。人形劇の人形だって拍手されることはあるし、マクドナルドの店員でもお客さんから、下手するとハンバーガーの包み紙からでさえ、優しくされることもあろうが、チャペルの歌い手は壁紙よりも水族館の電気の消えた水槽よりも、本当に誰からも相手にされない。その辺の床に落ちているトマトのヘタの方が、まだ皆の注目を浴びるのではないだろうか。せめて、ブライダルの小山さんがナイスなのが救いである。小山さん、ありがとう。
 そして、また明日も早朝に出発、はるばる軽井沢まで出張して歌わねばならない。これも、十三組立て続けに、素敵な山荘風のチャペルで。
智子はとうとうランプも消さず寝入ってしまった。パリかバリかどこかの天井の高さが何百メートル、何千メートルもありそうな石造りの寺院で甲高い声で一曲歌ったら、皆に絶賛されて一生帰らないでくれと嘆願された。嬉しくも困惑していたら、パイプオルガンかガムランの鉄パイプ・鉄板がドミノのように倒れてきて皆が逃げ惑って、上から吊るしてある電気が全部磯辺焼きになっていた。激しい動悸。やめて!

マリーゴールド (十八)

ホトケサマ、また難しすぎる話を読んでいるナ。この前はスタンダールの『赤と黒』だったし、その前はラーマーヤナと平家物語を同時進行、英日両方で交互に読み進めていた。ディズニーの絵本とか、せめてスヌーピーの漫画とかにして欲しいと思って智子が話しても、「精神の迫害よな」などと言われてどうすることもできなかった。
 そもそもバジは、高学歴すぎるのだ。インドの大学の土木工学部で橋の設計を勉強した後、アメーリカで比較宗教学の博士号を取った、らしい。日本におけるイスラームの研究で来日して以来、色々迷いつつも、居ついてしまったのだ。食堂、学食、植木屋、メロン屋トラック、魚屋、果物屋、映画館、山小屋、船着き場、文具店、学習塾、ローソン、絨毯屋、電気屋、トマト農家、警備会社、CD屋、ビール工場、とび職、ユースホステル、スキー場、倉庫、ビニル加工工場、写真屋、ペットショップ、質屋、神社、ホテルのプール、と実に色々な所で働いてきた。頭でっかちを治す、という名目のもと。
 今でこそ、変な訳の分からない新興不動産会社の手先になってみて、面白くないデスクワークに耐えながらもそう悪くはない暮らしをしているが、その昔、ミュージシャンをしていてころは名古屋の郵便局の軒先で何週間も野宿をせざるを得なかった時期だってあった。それはそれで、不思議と味があったものだが。
 実際、名前も、本当はバジなんかではなくて、ユーストスなのだ。聖ユーストス、クリスチャンですから。アメーリカではまだよかったが、日本に来てからユーストスなんてインド人らしくないと不審がられたから、バジなんて言う名前に変えたのだ。味噌汁だって、じゃんじゃん飲んでやったし、沢庵もぼろぼろ食べた。
 バジの声がまだ隣から聞こえる。マリーはもう流石に眠ってしまったことだろう。バジの手が小さな胸の上に被さっているだけで、安心してしまうのだ。

マリーゴールド (十七)

「マリーちゃん、もう寝なくちゃ」
そうマミが言って、目をつむったまま手をパンパンと叩いた。でもマリーは全く聞こえません、という顔をして、下を向いたままルービックス・キューブに夢中になっている。
「ぴー」
 マミはかなり無理をして、いきなり目を見開き、ベッドから滑るように降りると、大きな鳩になってマリーの周りを飛び回りました。羽をばたばた、首はころころ、足はとことこ。
「寝まひょう、寝まひょう、寝まひょうね!」
 と、できるだけ愛嬌たっぷりに音頭を取りながら。でも次に飛び跳ねた瞬間には、爛々と目を覚ませたマリーが割り込んできて、マミの真似をして鶏の様に飛び回って、きゃっきゃきゃっきゃ追い越そうとしてくる。
智子も負けずに飛び回ったら、笑いの止まらなくなったマリーが遂に床に倒れ込んでしまった。
 それを即、バジが両腕で素早く掬い上げて、
「はい、お鳥さん、寝ますよ」
 と、言って、抱っこしたまま立ち上がった。智子はというと、手だけ羽根のままで、ベッドの巣にちれぢれ疲れて戻って行った。
「お話、読みまっス」
 パピは腕の中に小さなマリーを抱えたまま、くるりと回って部屋から出て行ってしまった。マリーのお喋りの声とルービックス・キューブのカシャカシャという音が廊下に反響した。
 智子は暫く寝ッ転がって足を宙に上げたまま、息を止めてみた。心臓がどくどく、さっきのお遊びのせいで頭痛がする。
 隣のお部屋から、壁越しにバジの低い声が漏れる。マリーはときどき「うぇ?」とか「むん」とか声を出しながら、まだカシャカシャとキューブをやっている。

マリーゴールド (十六)

 

 「ねえねえ、寝られないよう」
 小さな声が聞こえる。ドアの下から、まるで子猫のようだ。また言う。
「ねえねえ」
 少しずつ声が大きくなって、遂に黄金色のドアノブが暗がりの中で回転した。
 黒いバジと白い智子は重なり合ったまま、ベッドの上から気持ち、ドアの方向に振り返る。でもできればそのまま甘いところに、居続けたい。もうトイレも風呂も済ませて寝間着に着替え済みで、消し残したランプの弱い光がシーツの上におぼろげな泡の影をつくる。
 智子は翌朝早くから結婚式の賛美歌うたいの仕事が入っているのだ。なるべく早く眠ってしまいたい。睡眠は咽喉に響く。バジはバジで、智子の留守中にマリーのためにとびきり美味しい目玉焼きを作ってあげるのだ。それから、古代エジプトの象形文字を勉強し直す。
 ところがまた「ねえ」と声がして、今度はドアが一寸開いた。バジは素早く智子から離れて、急いでドア寄りのベッドの縁に腰掛けた。智子は行き場を失って、そのままひっくり返っている訳にもいかないので体を起してベッドの上で座禅を組んだ。
 それからドアが半分以上開いて、廊下から部屋の中にオレンジジュース色の光が飛び込んできた。そしてその光を背にして、小さなマリーゴールドが立ち、そして訴える。
「寝られなくなっちゃたヨ」
マリーゴールドちゃん、四歳・カハハ。『ちゃ』の後の小さい『っ』が抜けていますよう、ほうら。桃色のお寝巻きを羽織って、手にはお誕生日プレゼントにもらったルービックス・キューブを持ち、甘栗色の髪からは薄ら寝癖が逆立って、毛頭が輝いている。
バジはベッドの端からマリーの方を向いて、
「マイ・リトル・プリンセッス」
 と両腕を広げながら顔をほころばせた。智子は廊下の電気が眩しくて、もう眠いし「かーぐーやーひーめー、池ネコ池ネコ、ごろりんしゃん」などと、気を失ったように迷走する心の中唱えていたのだが、顔だけは目をつむったままニコニコしておいた。マリーは、バジのほぼ百八十度全開された股の中に飛び込んできて、
「ぴぴパピ、ぴぴパピィ!」
と、はしゃぎながらルービックス・キューブのセルをぐるぐると騒がしく回し始めた。
バジはパピ、智子はマミ。